獺祭の製造スタッフは220人います。「データ化して機械化することによりオートメーション化を進めて、人件費の削減に成功し、大量生産体制を作った」と、一部には思われている獺祭なのにこの人数は異様です。でも、そもそも、「なんでこれだけの人数がいるの?」ということです。

確かに、獺祭の8倍ぐらいの売り上げ数量を誇る灘の大手メーカーでも91名と雑誌で読んだことがあります。北陸地方で獺祭と売り上げ規模が近い地酒メーカーを見てみても50名程度とも聞いています。比較してみると獺祭の人数は突出しています。

昨年、この大人数になった要因を裏付けるようなことがありました。製造部から「洗米ロボットがいらないんで、廃棄したいんです」という提案が出されました。この洗米ロボットは8年前から本蔵に入れているもので、一方では完全な手洗い方式を続けながら、それと対比して使ってきました。機械そのものは故障もほとんどなく「優れもの」として地酒蔵の間では神のごとく扱われているものです。でも、その洗米ロボットでもうちの洗米部門からしたら、目標に対して、性能がもう一つというのです。

その日洗米にまわされる白米はそれまでに水分検査を個別に実施して、精米前の検査とともに徹底的に分析されています。(どこそこの特Aだから素晴らしい、なんて思考停止状態にはなっていません。同じ産地でも米は田んぼごと・年度ごとにみな違うんです) 実はここで「優れている」ロボットと人の手の間に差が出るんです。白米の状態はロットごとにみな違います。ここにロボットは追いつけないんです。規定通りの吸水はきっちりやれるんですが、どんどん変わるロットごとの米の違いに機動的に対処するには力不足なのです。具体的には反応時間が機械は人間と比べて遅れるんですね。人間は機械と比べるとムラはありますけど、画一的な処理ができない状況では優れています。

しかし、機械となると人はいりません。洗米ロボットが一日に処理する白米を同じだけ人間が洗うとすると一人で済むところに5人はいります。洗米一つとっても、獺祭の酒造りは人手がいるのが理解いただけるでしょうか。

実は獺祭の酒造りの進化はこういう過程を通ってきたのです。まず、技術も何もない普通の地元用の酒しか造ってなかった酒蔵から始まり、純米大吟醸を追いかけ始め、それなりに優秀な杜氏にも来てもらえるようにもなったのです。しかし、その杜氏たちは酒造りには経験が深かったのですが、自分たちの酒造りを理論的に解析する習慣はなかったのです。

その杜氏たちが語る酒造りの技術「神話」のような世界から、純米大吟醸を追いかけるにつれ、こちらもそれなりに経験を重ねてきます。そうすると、データの重要性に気が付き始めました。しかも、私が酒造りにがっつり関与し始めたころからデジタル技術の進化により機器の低価格化が進んだのです。安価になったデジタル機器に支えられてデータは多くの切り口からとれるようになり、精度が増し、さらに有用なものになる。そうするとそれまでは満足していた酒造用の機械では様々な作業の仕上がりが不満になり、人がやらなければいけないことに気が付き始めます。そんな経緯をたどって、杜氏に逃げられて私と社員が酒造りを始めた1999年の製造スタッフ数の5人から現在の220人になったのです。

同じような話がアメリカからも来ました。現地の従業員を雇い、彼らに麹の深夜作業を任せることに腰が引けて、箱以降の麹作業用に、ある機械を入れました。その機械そのものはそれを使って新酒鑑評会で金賞の常連になっている酒蔵もあるぐらい評価は高い機械です。しかし、洗米ロボットと同じような意見が現地から上がってきました。「きちんとした麴にはなるけど、それ以上ではない」「これでは不満」というものです。これも、廃棄して、日本と同じ深夜作業も逃れられない箱による麹づくりに変えます。

この一連の話を聞いていただいてお分かりのように、これが獺祭なのです。「こうやって手作りを守ってきた」のではなく、「こうやって酒蔵として技術的にも品質的にも成長してきた」のです。

今日、朝礼で皆に話しました。「獺祭はオートメーション化して人間を阻害して酒蔵を伸ばす」のではなく、「データも利用しながら個人の力を引き出すことによって伸びてきた」ということです。「ただし、それは見方によってはマイナスもあって、個人の表面的なストレスは増える」「表面的なストレスという観点から言えば機械に頼って、自分が機械のしもべとなるほうが作業が楽」しかし「しかし、それが人間の幸せと思えなくて、この方式に進んできた」というものです。

皆が100%納得しているかはわかりませんが、大多数のうちのスタッフにはこの考え方が浸透していると思います。こんな考え方で獺祭は造られているのです。